読書録

読書整理用のダイヤリーから移行しました19/1/26土~

『朝日新聞政治部』 鮫島 浩 著

 本著の要素や内容を引用・抜粋しながら、以下メモ。
 
p14:「吉田調書」「慰安婦」「池上コラム」の3点セットで朝日新聞社は創業以来最大の危機に直面していたのである。+p19:木村社長が「吉田調書」報道を取り消した2014年9月11日は「新聞が死んだ日」である。
 
p15:私は27歳で政治部に着任し、菅直人竹中平蔵古賀誠与謝野馨町村信孝与野党政治家の番記者を務めた。39歳で政治部デスクになった時は、「異例の抜擢」と社内でも見られた。その後、調査報道に専従する特別報道部のデスクに転じ、2013年には現場記者たちの努力で福島原発事故後の除染作業の不正を暴いた。この「手抜き除染」キャンペーンの取材班代表として新聞協会賞を受賞した。
 
p18:自分の発言力や影響力が大きくなるにつれ、知らず知らずのうちに私たちの原点である「一人一人の読者と向き合うこと」から遠ざかり、朝日新聞という組織を守ること、さらには自分自身の社内での栄達を優先するようになっっていたのではないか。
 
p48:(1999年春:若宮啓文政治部長)「君たちね、せっかく政治部に来たのだから、権力としっかり付き合いなさい」新聞の役割は権力を監視することだと思ってきた。・・意外だった。
 
外務省「霞クラブ」での屈辱:美人特ダネ・K記者 中東で育ちカイロの大学を卒業 大阪社会部から2000年春に政治部、神戸連続児童殺傷事件で容疑者少年の供述内容をスクープ・煙草を話すなとサブキャップから・・野党クラブへ配置換えに(p68~71)
 
2001年官邸担当で、渡辺勉(つとむ)キャップ。平河キャップの曽我豪(たけし)と並ぶ政治部エース。
森政権の神の国発言を厳しく追及・・竹中平蔵の担当に・・財務省や麻生氏嫌いは変わらず(p82-84)
 
2003年古賀担当に:曽我政党長から「君は宏池会の担当であるが、それはどうでもいい。唯一のミッションは、古賀が小泉を支持するか、対抗馬を担ぐか、それを抜くこと。それだけやればいいよ」(p92)
+古賀氏は毎週土曜、地元の福岡に帰る・・番記者15人と夜完オフ懇談カラオケ3巡+翌朝(p95)
+他社は「古賀氏は入閣要請を固持した」と報じ、朝日新聞は「古賀氏が入閣要請された事実はなかった」と真反対の内容の記事にしたのである。(p99)
 
朝日新聞政治部の「両雄」】p102~
渡辺)都内の進学校から東大卒、初任地前橋で日航機墜落事故で活躍、政治部では官邸・外務省・自民党など。ワシントンとソウルの特派員も経験した国際記者
曽我)三重・伊賀の出身、東大卒、熊本→福岡をへて政治部。国内政局派。ややぽっちゃりの小柄で、おかっぱ頭に鼈甲眼鏡・・当時から政治部きっての書き手、取材力や執筆力にまして真骨頂は企画力だった。「論座」の原型を作った一人でもある。
梶山静六と飲んでいて俺と小沢一郎のどっちが好きかと迫られたら・・正解は「どっちも嫌い」)
 
【虚偽メモ事件】p111~
・2005年8月30日選挙で誤った記事 8/21朝刊で田中康夫長野県知事取材
朝日新聞の社長職は、政治部と経済部が入れ替わりで担う+「政経支配」に対する社会部の不満は強く
p116:朝日新聞には役所以上に内向きで足を引っ張り合う官僚体質がある。
(曽我43歳で責任追及を受ける・・著者も責任追及を受けたのは43歳の秋だった)
(社会部とは違う「調査報道」を生み出せ!)
・特報チームが編集局長直轄で正式発足は2006年4月10人で、初代デスクは地検特捜に強い社会部特ダネ記者の市川誠一(p124)
 
p138:菅氏は政治部や番記者の事情を熟知し、「都合の良い記者」と「都合の悪い記者」への対応を露骨に変えることで自らへの批判を封じ、番記者全体を「防波壁」に仕立てるのが巧妙だった。番記者たちが望月記者の追及から菅氏を守った真相はそこにある。
 
2008年秋、麻生総理が「文藝春秋」衆院解散を決意したと受け取れる論文を寄稿、政界に波紋を広げたが、ゴーストライターは曽我編集委員という噂が広がり、一部メディアでも報道(p141)
 
p149:朝日新聞という組織は極めて官僚的で内向きであるとこれまでも書いた。しかし時に芯の強い記者がいる。組織内の秩序を乱す私のような問題児がそれなりに陽の当たる道を歩いてこられたのは、責任ある地位についた者たちの中にも「芯」を忘れず、不条理に向かって突撃していく若手を支援し、そのエネルギーをくみ上げ、変革に結びつけようとする人々がいたからだ。
 
p160:曽我「秋から政治部のデスクになるんだってな。渡辺にシッポを振ったのか」
 
2012年6月特別報道部デスクに、依光(よりみつ)隆明前部長(高知新聞で調査報道、秋山社長が引き抜く)と宮崎知己デスクらが「プロメテウスの罠」展開、市川社会部長が4月に部長でエース記者を引き連れ、2グループが対立、編集局に君臨していたのは吉田慎一編集担当役員で、特報チームで縦割りを排した大胆な組織改革を構想:発行部数の減少で脱記者クラブ、新たな売りは調査報道と言論、特別報道部とオピニオン編集部を二枚看板に、人材や資金を集中投下に政治、経済、社会などは徐々に縮小(p179-182)
 
特別報道部は、1記者クラブに属さず、2持ち場、3紙面、4組織の垣根、5ノルマ、がない強みを最大限活かし、隠された&埋もれた事実を掘り起こして社会に提起することが使命、会議は週一で年功序列なし(p190-191)
 
p198(官僚主義を打破する宣言は?に秋山社長)「私も官僚主義を打破しようと思ったんだけど、ずいぶん難しくてね。もうあきらめた」とあっさり認めたのである。・・・政治家の取材を重ねた政治部出身の経営者たちは、こうした当意即妙の受け答えがうまい。
 
2014年5月20日「吉田調書」朝刊に第一報、(p209-)
「なぜ東日本壊滅の部分を第一報にしなかったのか」p214
「所長命令に違反 原発撤退」という見出し p218
・前日の午後6時にデジタルで「スクープ予告」宮崎知己記者発案 p220
・称賛の声で編集担当賞が翌日に決まる p224
(取り消された後の社内調査で)「最大の失敗は6月にある。世論の批判が高まる前に先手を打って軌道修正すべきだった。5月20日の第一報よりも、その後の危機対応の失敗が大きかった。その責任は取材記者の2人にはない。事故対応に失敗した私以上の管理y即と経営陣にある」と強く主張したが、まったく聞き入れられなかった。・・危機対応の失敗を黙殺したのである・・第一報の「小さなほころび」を補う続報が経営陣の反対で先送りされる間、ネットメディアや週刊誌を中心に「命令違反と言えるのか」「誤報ではないか」という批判がじわじわと広がり始めた。
・8/18産経新聞が他紙に先がけ、吉田調書を入手したとして報道を開始
・徹底抗戦の構えが、「池上コラム」問題9/2夜以降週刊文春のウェブワイトなどで報じられ事態が急変
・人事部の事情聴取は私たちの「処罰」を決めるためのものだった
渡辺勉編集局長「僕は必ず復活する。だからそれまで我慢してほしい」 p260
 
一般企業ならまだしも、私たちは言論機関を標榜する新聞社だ。・・・自社の社員の職務外での言論活動を制約し、とりわけ自社への批判を押さえ込むのは新聞社の自己否定ではないか・・「吉田調書」以前の朝日新聞はもっと寛容だった。p270
・自由な社風はすっかり影を潜めた。p273
 
2018年春 論座再建 ウェブメディア 100万pv低迷 吉田貴文 政治部出身 p273-
・達成目標を明示しないで「やった気分」になり、立ち消えになっても誰も責任を取らず、好き嫌いで人事や評価が決まっていく。朝日新聞のそのような体質が私は大嫌いだった。p275
中島岳志田中均、保阪展人、ら 漢字に戻す、1年後に10倍 1000万部、
 
2020年夏 Dr.ナイフ起用の波紋 p278~
・謎のインフルエンサー 6万フォロワー政治批判 「朝日すごい」と評判、目玉企画になるかと
・SNS戦略担当から匿名は認めない・・イイネの人をフォローして双方向に自力でファンを獲得だが否定p280
・「読者が安心して読めない」で連載を打ち切るp281、
・7月26日 論座からお詫び文 編集部のミス p283 
・秋の人事で編集長を解任 p284
 
p287:(五輪スポンサーに関与)政治学者の中島岳志さん
「不動産部門やイベント部門で収益を上げて新聞を支える構造」を指摘し、「この『弱点』を、権力者が見逃すわけがなく、収益の出る国家イベントにメディアを組み込み、批判が出にくいシステムを作っている」と分析している。
 
 この読書録に記録する余裕がないまま、3月末の年度末を迎えそうだったので、一区切りの意味も込めてアップ。コメントは、あえて後日としたい。
 
{2023/2/6月-14火:読了、記入は3/30}