読書録

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私の履歴書 経済人11

私の履歴書 経済人 11

私の履歴書 経済人 11

p141〜218に『竹鶴政孝』(ニッカウヰスキー社長 掲載時:昭和43年5月)が掲載されている。平成16年に復刻版が出ていた。日本におけるウイスキーの歴史を当事者の言葉からたどることができる。以下引用。


p144:寿屋(サントリーの前名)の鳥井信治郎社長(故人)が洋酒の将来性を確信して、ウイスキーづくりに金は出すから君にまかせる、といわれてつくった山崎の工場がなかったら、はたして日本は今日のようなウイスキーができる国になっていただろうか。

p190:私が寿屋に入る条件として、ウイスキーづくりを全部まかせる。必要な金は用意する。十年間働く、年棒四千円という約束が二人の間にできた。年棒の四千円は、スコットランドから技師を呼ぶ場合の見込み金額をそのまま私に当てはめたものであり、雇用期間の十年は、ウイスキーが商品として完成するのに必要な年数ということで決まったのであった。そこで大正十二年(1923年)6月に寿屋に入社、まずウイスキー工場をつくる場所を決めることが私の最初の仕事であった。…山崎で、私はそれを向かいの男山八幡にあるお宮からながめて、最終決定した。

p201:(命令でビール工事の拡張工事にかかっている最中に、300万円という高値で売り渡しが決まり)工場長である私にとてショックであったことはいうまでもない…

p202:私もそろそろ四十歳になる。「独立しよう」と固く決意したのはそのときだった。とはいえ、鳥井さんとはけんか別れではなく円満に退社したのである…私はつねづね自分でウイスキーづくりしたいと思っていた…あの清酒保護の時代に鳥井さんなしには民間人の力でウイスキーが育てられなかっただろうと思う。そしてまた鳥井さんなしには私のウイスキー人生もかんがえられないことはいうまでもない。

p206:ニッカという商品名は、当時の社名の大日本果汁の略、日果からとったものである。ニッカの三文字を採用したのは、横書きにしても片方からしか読めないことと、三文字は語呂もいいしネオンの場合でもスペースが少なくてすむし、一定スペースの場合は大きく×という利点があるということで決めた。

p216:ウイスキーという、科学だけでは解明しきれない、ある意味で魔法のようなものに自分がとりつかれて、自然の神秘のような力と、人間の力のあいだをさまよい続けてきたのではないかと思うこともある。



P349-405に『時国益夫』(麒麟麦酒社長 掲載時:昭和44年2月)があり、キリンビールの歴史を知ることが出来る。冒頭、p351「私の七十六年間の人生の中で、真実、感じていることは、人間万事、時が到れば成る、という感慨である」として、順風満帆の人生であったと書けるのは、良い生き方ができたのだろう。会社としては、明治21年に資本も経営も外国人のもので、明治40年に日本人になったが、技術はしばらくドイツ人が守っていたという。横浜のビール工場を見学したことがあったが、確かにそうした歴史が書いてあったかのような気もする。


ビールや洋酒業界をめぐっては、さまざまな動きが出ているが、その歴史をたどると、知らないことが多く、興味がわく。

{8/21-24読了、記入は29}