読書録

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リタの鐘が鳴る 竹鶴リタの生涯

リタの鐘が鳴る―竹鶴リタの生涯

リタの鐘が鳴る―竹鶴リタの生涯

放送が始まったマッサン関連で、妻のリタを中心に描いた本。タイトルは、余市で工場全体に始業と終業を知らせる合図として、牛が首にかけているカウベルを鳴らしたことに由来する。朝8時と昼12時、午後5時の3回「カランコロン」と鳴り、「リタの鐘」と余市の人が呼んだと紹介している。(p211-213)


朝日新聞出版から文庫本として復刻されたもよう⇒ http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=16255
スパイ容疑をかけられた苦労など紹介文や本著の冒頭にも出てくるが、夢を支え愛に生きた彼女の生涯に触れるだけで、涙腺がうるんでくるところがある。


印象に残ったり、備忘録として残したりしたい部分を以下引用。
◇(オリブ・チェックランド女史からリタは日本で幸せだったかと聞かれ、著者は答えに迷い)p18:独立してウイスキーづくりで苦労する夫を支え続けた気苦労を想像したからである。それに戦時下の特高警察による監視がある。

◇上記チェックランド女史は、マッサンがスコットランドにいた時期には、すでにリタの父親キャンベル医師は亡くなっていたとしているが、本著で著者は、p23「竹鶴政孝が撮った父親の写真が残っている」p50「キャンベルの急死は、竹鶴政孝がフランスへ旅行中の出来事だった」と会ったことになっている。父親と面会していたのかどうか、諸説あってよくわからない。

◇リタが家庭教師をしたのは、姫松の高級住宅街に住む関西の財界人で、家主は芝川又四郎で余市の土地も買う、加賀一山(正太郎)家(山崎でp133)でも家庭教師をしたp82-83
・リタが英語で歌って聞かせたのは、「埴生の宿」とか「夕空晴れて・・」などスコットランド民謡p104
⇒加賀は個人的な同情から助けるなら断るというエピソードがあり、ウイスキーづくりには反対p188⇒密かにウイスキーづくりを進めるp218、工場長は牛尾元市(鳥取生まれp206)、側近に五十嵐留治(p201横浜工場)

◇(大正12年の正月?2月?に鳥井社長がスカウトに訪れ、リタは)p89「マツさんの夢が叶えられるわね!」と大声で喜び、政孝に抱きついた。

◇(リタが流産したことに担当医師の説明)とても神経が細かく、気疲れ。住みなれない日本で相当神経が参っているp118

◇リタが母と再会するのは1931年・昭和6年の34歳、11年ぶり、母とは何の言葉もなかったが和解できたと思ったp154-160

◇1933年・昭和8年に政孝の母が亡くなり、40歳で自分の工場をつくろうと心に決めるp175⇒翌年3月1日に寿屋を退職 p177「事業家の鳥井と、技術者の政孝とは、やはり考え方に大きなへだたりがあったということだろう」


それにしても、さまざまな本が復刻され、書店の店頭をにぎわせている。いろいろ知りたいと思う物語だ。

{9/23-10/1読了、記入は10/11土}