読書録

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ウイスキーと私

ウイスキーと私 (1976年)

ウイスキーと私 (1976年)

先に読んだ日経の連載「私の履歴書」に補筆した本書は非売品だが、図書館で昭和50年の第5版を借りることができた。発刊によせてを、当時の吉国二郎国税庁長官が「さながら日本のウイスキーの履歴書に通ずるもの」と記し、最後には、当時のギルビー社社長が「一門あげて竹鶴ファン」、星野直樹ダイヤモンド社会長が「経緯と謝意とを感じないではいられない」、野田卯一衆議院議員が「人間として超一流」、とそれぞれ賛辞を送っている。


先の読書録( http://d.hatena.ne.jp/MrBooPapa/20140824/1409242411 )に記さなかった部分で、備忘録として以下引用。
◇p90:(結婚について)また母が理解を示してくれて父や家族の説得者になってくれたのである。母は封建的な時代に、田舎の生活しか知らなかったが、当時としては進歩的な考え方のできる判断力のある女性であった。
◇大正11年(1922)から12年の初めにかけて数か月、ウイスキーづくりを離れた唯一の生活で、桃山中学で化学の教師をし、リタは帝塚山学院で英語を教えるかたわら、英語とピアノの個人教授を頼まれると引き受け、野田卯一氏の夫人に英語を教えていたp106
◇鳥井さんは三顧の礼のことばどおり3度訪問され、申し入れは全部聞いてもらえたが、工場をつくる場所には北海道がいちばん適しているとすすめたが、「工場を皆さんにみてもらえないような商品は、これからは大きくなりまへん。大阪から近いところにどうしても建てたいのやp109」といってきかれなかった。
◇昭和6年8月に3回目のイギリス行きは、鳥井さんの長男・吉太郎さんが本場を視察する案内役およびつまり他の帰郷旅行を兼ねたp127
◇(リタは函館まで行くと内地に渡れず引き返したり、ラジオから暗号が出ていないかと探知機で調べられたことも)妻のリタほど日本人になりきった外国人も少ないと思う。日本料理も得意であったし、漬物作りは嫁に教えるほどの腕前でさえあった…食事から風俗習慣まで、まるきり違う大正時代の日本にやってきて一生懸命日本人になろうとして努力した妻であっただけに、いっそういとおしく、しばらくの間はショックが続いたp156
◇(千円のブラックニッカで、ウイスキー戦争と人は呼んだが)そんなことは小さな局面…日本のウイスキーの品質のアップに役立ったかどうか、ということだけが問題だと私は思っている…よいものを安く出せば、消費者の皆さんに飲んでもらえるということを実証したわけであるp160
札幌五輪1972年でジャンプの金メダル 笠谷幸生選手はニッカ社員で、余市の竹鶴シャンツェp177
◇(飲み方)ウイスキーの適温は8〜9度でロックは感心しない。ウイスキー1に水2の倍で薄め12度から13度ぐらいにすると、胃の粘膜も痛めない。p188
◇p191:楽しみはできるだけ長く-それが人生を幸せにする方法であるといえよう


なお、この本は、別の出版社から復刊され、目次の一部がセブンネットに掲載されているもよう⇒ http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1106440609


{9/9-11読了、記入は17}