読書録

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『自己チュー親子』 諏訪哲二 著

自己チュー親子 (中公新書ラクレ)

自己チュー親子 (中公新書ラクレ)

自ら自己中心的なところがないか、と問いなおせば、かなり勝手なところがあるようにも思う。子どもは親を見て育つ。自分の行動に気をつけつつ、ちゃんとしつけていかなければとは思う。
しかし、中学生にもなると、ほとんど親の言うことを聞かない。というか、なかなか会話も成り立たなくなってくる。
本著で示されているように、毅然とした態度で社会とのかかわりを教えていかなければならないのだろうけど、教える親の側が、なかなか悩み悶えているところがあるため、これもまた難しい。



(扉ー要旨)
子どもの問題は、親を語らずして解決できない。モンスター・ペアレントに向き合い、現代の家族を解読した注目の本。「かけがえのない自分」が暴走するとき、社会は悲鳴をあげる。

(目次ー引用)
第1章 フェアプレーなきヒーロー―亀田親子について;
p32:勝つためには何でもするという彼らの生き方は、実はそれほど得意なではなく、ライブドアで一世を風靡したホリエモン氏と同様、いまこの社会に浮上しつつある生き方の典型だと思っている。
p46:「自己チュー」は結局、社会的な「個人」(責任)を回避し、内面的な「自己」へ逃げ込もうとする生き方を指しているように思う。
p49:(バイクを盗んで・乗りたかったから当然でしょ、という感覚)


第2章 「オンリーワン」はそれほど大切か?;
p84:かつて日本の親たちは、「世間に恥ずかしくないように生きよ」と教えた。しかし、「消費社会」に入ると、「自分の特になるように生きなさい」と教えるようになる。「自分でよく考えて決めなさい」とすすめるようになったからである。


第3章 秋葉原事件をめぐって;
p120:ほかの人やまわりの人に思いやりや関心を持た(て)ないから、加藤青年はみんなから相手にされない。他人との関係で「贈与」的な位置に立てない。まことに不幸なことであった。


第4章 「親」は何をしてきたのか;
p140:(開成高校生殺人事件・1977年10月30日・本多勝一『子供たちの復讐』より・家庭内暴力の激しさで子殺しを父親が決意)
p149:自らが勉学の主体であるという幻想から醒めてしまった。・・実は親たちにやらされていたと気づいてしまった。


第5章 モンスターペアレントの「妄想」;
p188:モンスターペアレントを「自子中心主義」とも呼ぶそうだが・・・自子のすべてを思い通りにしたいと思っている自分を、大事にしているだけである。
p190:(広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』の指摘より、子どものしつけの担い手から、地域共同体が役割を失い、1970年代に入るころからは、家族の方が学校より優勢になってきたという論旨を重要なポイントとして紹介)
p197:自分の子どもを学校という公共の場では特別扱いしないー単純ながら、モンスターペアレントにならないための明快なポイントがここにある。


第6章 「自己チュー」の発生源としての家庭;
p210〜{玄田有史『子どもがニートになったなら』(生活人新書2005年)より}:ニートになった若者に仕事を探さなくなった理由を尋ねると、「希望する仕事がみつからなかった」が、「探したけれどみつからなかった」と並んで、とても多くなっています。・・いつも講演でいうのは、「やりたいことをやっていいよと言うのは、やめておいたほうがいいですよ」ということです。何でもいいから好きなことを選べと言うことぐらい、子どもにとって苦しいことはないですから。


第7章 理不尽と非合理の効用
p268:非合理や共同体的なものや、生活の型や、強制は必要だ。そして、親は教師はもっと、本質的な意味で、ものわかりが悪くならなければならない。


{地区センターから借り10/01読了、記入は11}