読書録

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『思春期ポストモダン』 斎藤環 著

思春期ポストモダン―成熟はいかにして可能か (幻冬舎新書)

思春期ポストモダン―成熟はいかにして可能か (幻冬舎新書)

正直いって、なかなか難しい。背景としてのジャック・ラカンやフェリックス・ガタリの論理と、著者の意欲的な「病因論的ドライブ」による分析で、「関係」を重視するということのようだが、扉に書いてある「処方箋」は何なのか、つかみにくかった。以下引用・・。

目次:序章 若者は本当に病んでいるのか;第1章 思春期という危機;第2章 欲望を純化するネット社会;第3章 境界線上の若者たち;第4章 身体をめぐる葛藤;第5章 学校へ行かない子どもたち;第6章 ひきこもる青年たち;第7章 「思春期」の精神分析

扉:メール依存、自傷、解離、ひきこもり…「非社会化=未成熟」で特徴づけられる現代の若者問題。しかし、これらを社会のせい、個人のせいと白黒つけることには何の意味もない。彼らが直面する危機は、個人の未熟さを許容する近代成熟社会と、そこで大人になることを強いられる個人との「関係」がもたらす病理だからだ。「社会参加」を前に立ちすくみ、確信的に絶望する若者たちに、大人はどんな成熟のモデルを示すべきなのか?豊富な臨床経験と深い洞察から問う、若者問題への処方箋

p65:「生き延びること」は至上のテーマではない。・・価値観の大混乱が始まる。殺してはいけない、人に迷惑をかけてはいけない、自分の行為には責任をとらなくてはいけない、といったいままで当たり前と思われていた価値までが、その根拠を問われ、しだいに当り前のものではなくなってしまうのだ。・・価値観の定まらない社会にあっては、成熟そのものが著しく困難になってしまうのかもしれない。
p69:少子化核家族化、あるいは母子密着、父親疎外、そして不登校とひきこもり。・・韓国でも起きている・・「雁パパ」
p76:コミュニケーション能力と自己イメージは逆相関:「ひきこもり系」の若者はコミュニケーションが苦手だが安定した自己イメージを持つ。「自分さがし系」の若者たちは、コミュニケーションが得意で友達も多いが、自己イメージが不安定。
p99:ネットやゲームをできるだけ禁止せず、生活にうまく組み込んでいけば治療に活かせると考えている。
p103:この飽食の時代に、・・生きる意欲をなくし、死に魅せられる若者たちが大量に存在する・・未来に対して悲観的であり、自分の存在価値についても空虚な感情しか持てずにいるという事実。共感的に受け止める必要があるだろう。
p127:2006年のいじめブームは3回目、1986年東京都中野区富士見中学2年の鹿川裕史さん「このままじゃ生きジゴクになっちゃうよ」/1994年愛知県西尾市東部中学校2年の大河内清輝さん、自殺報道が群発自殺につながった。
p153:女性の本質は表層的な見かけにあり、男性の本質は内面的な機能にある。
p174:宮台真司氏や上野千鶴子氏が批判する「学校化社会」とは、偏差値一元主義の下での競争は、敗者には不満、勝者には不安、というストレスを与える。・・不登校を劇的に減少させたのは、尾木直樹氏が指摘した2002年からの週5日制の開始が一番の要因だったように思う。
p179:不登校の治療とは、関わりながら試行錯誤することの連続。
p192:ラカン精神分析の立場は、すべての人間を言葉を語る存在という意味において、ひとしく神経症者として理解しようとする。これは言い換えるなら「人間みなビョーキ」という見方でもある。欲望や判断も「症状」・・勤勉に働くことは無条件に良いこととはいえない、勤勉な横領などは倫理観に欠けるというなら、そもそも完全に倫理性をまっとうできる仕事がこの世にどれだけあるか・・仮説としてラカン派の視点からみると、ひきこもり事例がいちばん正気に近い、という結論になってしまうのだ。
p194:WHOの健康の定義(1999総会)は、「健康とは身体的・精神的・社会的に完全に良好な動的状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない」 それは、自由さと安定性が高いレベルで一致することだ。
p211:ひきこもりの対応は次の3段階 1.家族相談 2.個人治療 3.集団適応支援。
p228:「関係」が重要なのだ。関係性の中に身を置くこと、ひたすら関わり続けること、そうしたかかわりの中で「関わり方」「考え方」を常に更新し続けること。・・理想の「思春期の精神分析」にほかならない。

{図書館で3/31借り4/11読了、記入は4/18}