読書録

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『哲学がはじまるとき』斎藤慶典

哲学がはじまるとき―思考は何/どこに向かうのか (ちくま新書)

哲学がはじまるとき―思考は何/どこに向かうのか (ちくま新書)

生きることの意味を考えるとき、哲学に何かヒントがないだろうかと、この本を手にしたが、「はじめに」のところでは共鳴するところもあったのだが、本文については、ほとんど私の理解を超えていた・・修行不足というか、もっと「思考」について過去の古典に接し、自分なりに考えなければいけないのだろう。また別の機会に読めば、どこかで共鳴できるところが出てくるのだろうか?以下は、多少なりとも共鳴できた部分の引用。

扉より:「哲学とは、考えること」以外の何ものでもない。・・「どうして?」という問いを発したとき、すでにそれは始まっているのだ。・・「打ち切り」になっている問いをどこまでも徹底して考え抜いたとき、世界が、存在が、時間が、真理が、そして「私」が、あらたな驚きの相のもとに現われてくるだろう。
p10:「何かを知るためにはすでにそれを知っていたのでなければならない」「すべての知は想起である(プラトン)」
p13:「かくして思考は、つねに「偏差(ずれ)」とともにある。
p23:私は問いとしての思考の成立を、世界に偏差が生ずることとそれへの対応の内に見届けたいと考えている。
p26:「哲学は驚きからはじまる(アリストテレス)」
p39:人生は結う意味でなければならないのだ。だが本当だろうか。・・・人生に最終的な意味を与えてくれるのが神だが、ニーチェは神はでっちあげの最たるもの・・「無意味」性のまま受容し・担う存在をもはな人間ではないもの=超人と呼び、この超人に人間の未来を託す。
p60:哲学の誕生を「神話からロゴスへ」と形容したりするのは、協議の哲学を神話的、宗教的思考から脱皮させることになったから。
p61:「思考することは端的に良いことだ」と述べたのは、すべてであるはずの世界が思考を通してその外部の可能性に覚醒すること、このことだけが、世界をあらためて全面的に受け容れること(肯定すること)を可能にする。
p64:真理が明々白々であれば心理の探求としての思考が、すなわち哲学が立ち上がる余地もないが、真理がどこまでも秘匿されたものにとどまるならば、その探究ということが不可能となるからで、本書の思考もこの両極の間をジグザグに縫うようにして進むことになるだろう。
p68:問いとしての哲学は、対象をうまく限定し・それに対する適切なアプローチの仕方を確立した個別学科が次々と独立していくことを以て、その使命を全うしたことになり、なお哲学として残るのは、いまだに対象を限定できずアプローチがわからないもの。
p95:世界の無意味さにより徹底して直面するために、思考は遍歴を重ねているかのようなのだ。・・世界の無意味さを・反復し、そのことを通じてふたたび・みたび世界を受容し直すこと、あらためて全面的に肯定すること、すなわちそれを「享受」すること、それが思考であるかぎりの哲学ではないか。

{図書館から2/22借り29読了、3/1記入}